植松聖はなぜ無職で童貞で不幸な自分を殺さなかったのか

相模原で健常入ってる人達を19人殺した植松聖さんが起訴されたってんでニュースで「あいつらにも生きる価値はあった」みたいな事が言われてますけど、「生きる価値」ってなんなんでしょうね。

 

「生きる価値」を生涯賃金で測るのは良くない。日本では(他の国のケースを知らない)賃金は働く場所によって大きく異なるためだ。東京(最低賃金932円)都民の方が島根(718円)県民より生きる価値があるなんて言ったら吉田君が怒るだろう。また時代によって日本円の価値は大きく異なるため、この点でも良くないと言える。吉田君の初任給が20万で、総統の初任給が13万円だとしたら、大卒時代、吉田君は総統1.5人分の価値があったということになる。これを言ったら総統が怒るだろう。

 

育てた子供の数で測るのも良くない。人間というのは社会的な動物で、ある人が他人の出産や育児に貢献したりする。これは産婦人科や保育士などの直接的なことだけでなく、「子供を育てて大人にする」という社会システムに組み込まれてしまった現代人全員のことである。原始時代であれば全て親がやっていたことだ。そういう貢献も含めて考えると「育てた子供の数」を測るのは難しいだろう。

 

では「当人が幸せを感じているか」はどうなのか?これは最もまともな結論に見えるがそうではない。ニュースでも「こんな幸せそうに生きていた奴を殺すなんて許せない」と言っていたが、じゃあ不幸に生きてる奴は殺してもええんかい。現代の日本には、MURよりも不幸な人間はごまんといるだろう。職場の人間関係を気にして、上司の理不尽な要求に耐え、寝たら来てしまう未来に備えて給料をやりくりする。それが自分の“社会人”像だ。少なくとも、何も考えずクッキーを作っているMURにはわからないだろう。

 

(一応言っておきますがMURを殺せと言っている訳では)ないです。

 

色々考えた結果、「生きる価値」というのは考えるだけ無駄だと思いました。“真理”があるとして、それを自分が知ってツイートしても殺人や自殺や戦争を止められるだけの言葉の力がある訳じゃない。だってフォロワーそんな多くないし、そのうちの99割はbotだろうから。

 

まあ殺人も自殺も戦争も良くないと思いますよ(小並感)